独白集

今は主にエッセイを書いています。

死と生について

 子どもの頃、死ぬことが怖くてよく泣いていた。このトンネルを抜けたら、事故に巻き込まれて死ぬのではないか。眠っている間に大きな地震が起きて、明日の朝には死んでいるのではないか。いつもそんなことを想像していた。しかし「その時」は今日まで来なかった。もうすぐ私は30になる。
 何度も「死ぬのではないか」と恐れて、結局死ななかった。このまま100歳まで生き延びて、現実も夢も区別がつかなくなった頃に、気づいたら死んでいるのかもしれない。そんなふうに、いつしか私の中で、「死ぬことは遠い未来の話だ」という前提ができあがった。その根拠のない思い込みのお陰で、明るく、健やかに生きることができていた。

 だけどこの頃は、傍らで息を潜める死の存在を強く意識するようになった。元々あまり好きではなかったテレビを、結婚した頃からよく見るようになったからかもしれない。明るい話題に混ざって悲惨なニュースが嫌でも目に飛び込んでくる。突然やってきた男が油をまき、職場を火の海にしてわけもわからないまま亡くなった人。楽しい旅行に来ていたはずが、嵐で船が傾いて海に身を投げるしかなかった人。亡くなった人たちが最期に体験した恐怖を想像して、眠れなくなる。
 小さい子どもが亡くなる話も耐えられない。気づいたら独りぼっちで、汗だくになって、喉がカラカラで、頭が朦朧として。雨の中、突然大きな暗い穴に吸い込まれて。明日も、お友達と遊ぶはずだったのに。大好きなママの作るご飯を楽しみにしていたのに。その明日が突然来なくなる。想像するだけでいたたまれない。そしてまた私は眠れなくなる。


 エーリッヒ・フロムの「愛するということ」によれば、母性愛の一側面として、生きることへの愛、すなわち「生きていることは素晴らしい」という感覚を子どもに与えることがあるらしい。
 しかし最近の私は少し厭世的で、息子にこの世の素晴らしさを教える自信を失っている。
 生まれたからには、与えられた生命を一生懸命使い切って、人生を楽しみたいとは思う。しかし子どもを自分で産んでおいて「与えられた命を大切にしろ」とは言いづらい。「人生は素晴らしい、この世は美しい、だから頑張って生きろ」と言えるほど、私はこの世の仕組みを肯定していない。


 私は一人っ子だったので、昔から大家族に憧れがあった。従兄弟は5人兄弟で、ケンカも絶えない様子だったが、上の子は下の子を可愛がり、下の子は上の子に甘えて、賑やかに過ごす姿が眩しかった。しかし、幼い私は従兄弟たちの表面的な姿しか見ていなかったように思う。思えば、彼らは皆、大学には進学していなかった。学歴が全てではないけれど、彼らは皆、大学に行く選択肢すら与えられず育ったのではないか。つまり、多子家庭ならではの余裕の無さの中で、苦労して生きてきたのではないかと、今なら想像できるのだ。
 よほど裕福で恵まれた環境が用意されているわけでもないのに、考えなしに子供をたくさん産んでしまう親ってどうなんだろう、と思うことがある。「恵まれない人は子供を持ってはいけない。」とまで思っているわけではない。そもそも他人の家庭について、私が余計な心配をする必要はない。だけどモヤモヤする。おそらく、一度出産を経験して、再び新しい命を授かって良いのかどうか、私自身が悩んでいるからだ。

 息子がもうすぐ2歳となるこの頃、義母からも祖母からも二人目は早く産んだほうが良いと言われるようになった。どうして新しい命を産み落とすことについて、そんなに簡単に言えるのだろうか。我々夫婦の経済事情や意向を知っているわけでもないのに、二人目を産む前提で話しかけてくることに、違和感を覚える。
 そういうことに憤りを覚えつつも、私自身、もう一人子供がほしいと思うこともある。一人目は男の子だったから、次は女の子が良いなどと思ってしまう。もし次に生まれてくる子が男の子だったら愛せないのかと聞かれたら、そんなことはないと答えるだろう。だけど、店で服の色を選ぶときと同じ感覚で、次に「欲しい」のは女の子、と思ってしまう自分がいる。子どもはモノではないと頭ではわかっているのに、そんな考え方をしてしまう自分に、嫌気が差す。

 命をまた一つ、この世に「連れてくる。」。何もない世界から。それは、恐ろしいことではないか。
 その怖さをスルーして、やれ結婚だ、孫はまだか、と当たり前のように騒ぎ立てる人々。でも、私だって他人のことを言えたものではない。

 私は息子を授かったときにこう思った。子どもを欲しいと強く思ったことはないけれど、この子はお腹にやってきた。これは私の意思や行為の結果ではなく、神様が私に与えた命だから、大切にしなければならない、と。しかし本当にそうだろうか。私と夫が絶対に子どもを産まないと決めていれば、この子は産まれてくることはなかった。「神様からの授かりもの」という表現で、子供を産む決断をしたこと(いや、むしろ決断という決断もせずに、なんとなく子どもを作ったこと)への責任から逃げていた気さえする。
 私は反出生主義の立場には反対だが、ある種のおめでたさがなければ子供を産む選択はできないだろう、という点は自分の体験を通してうなづけてしまう。


 まだこの世に存在していない命について考えるとき、私の思考回路は深い闇に落ちていく。彼、又は彼女はどこから来るのか。私たちはどこから来たのか。どこへ消えてゆくのか。
 自分の命のおわりと、まだこの世に存在しない命のはじまりについて考える。それはつまりこの世界の仕組みについて考えることであって、答えは永遠に出ない。出ない答えを探して、彷徨っている。
 もうすぐ今年も終わる。時の流れが速すぎて、足をすくわれそうになる。