独白集

今は主にエッセイを書いています。

書かなければならないから書きたいへ

 随分前に作ったまま放置していたはてなブログに文章を載せていこうと思った。これまで長い間noteに投稿していたが、それをやめるつもりはない。ただ、はてなブログユーザーの方とも交流したくなったのだ。要は自分の書くものをもっと沢山の人に読んでもらいたくなった、というわけだ。

 noteは、様々な作品が入り乱れてタイムラインを流れてゆく感じがある。それはそれで面白いのだけれど、はてなブログは、昔からある「ブログ」の形そのままで、閉ざされた世界であり、巡っていると作者の自室を覗き見しているような感覚に陥る。私もいつか、そんな世界を作りたいと思っていた。
 はてなブログには、一度noteに投稿した作品の中で特に気に入っているものを手直しして載せるのも良いかもしれない。

 あれこれ考えながら、私は再び「文芸」という趣味と向き合っている。


 突然だが、人はいつか死ぬ。その事実を、自分にも当然現実に起こることとして、実感を持って受け止めることができるだろうか。自分の死について、普段意識から遠ざけて生きている人も多いのではないか。そんなことを常日頃から考えながら生きるのは、幸福な人間にとっては辛いからだ。

 しかし幼い頃の私は、自分がいつか死ぬという事実を器用に誤魔化すことができず、何度も反芻しては、恐怖を味わった。今でも時々あるが、死後に続く永遠の闇を想像しては、不安に襲われてパニックに陥った。
 そんな私を救ってくれたのは、「作品」たちだった。音楽でもよかったし、小説でもよかった。「作品」に触れることで、いつか終わりを迎える自分の人生から逃れ、永遠を感じることができた。芥川龍之介や、尾崎豊。亡くなった人の作った世界に触れることもあった。人は死んでも「作品」は消えないし、そこに込められた魂は永遠に生き続ける、と気づいた。それは大きな救いだった。
 今思えば、幼い私が創作にのめり込んだ理由のひとつには、「良い作品を残せば死んだあとも生き続けられるかもしれない。」という、死への恐怖への反動からくる幼稚な願望があった。
 そんな衝動に動かされながら、半ば強迫的に作品を作り続けてきた。

 

 大人になり、就職し、結婚して、子どもを産んだ。人生が進むにつれて、創作に費やす時間は、徐々に少なくなった。
 ふと、今の自分にはもう、創作は必要なくなったんだなと思うことがある。

 昔に比べたら生への執着が減った。死への恐怖は今もあるし、長生きはしたいが、自分が年老いて、周りの人たちが次々と先立つと、自分もそちら側に行きたくなるんだろうなと思うようになった。いつか死ぬこと、忘れ去られることは自分ではどうにもできない。受け入れるしかないのかもしれないと、思うようになった。
 子どもを持ったことも大きい。あえて作品を作らなくても、私の一部が含まれた人間がこの世に生きてくれている。私の姿形、ぬくもりや声、発した言葉の断片を覚えていてくれる。それだけでもう、十分だと思うことがある。
 夫の影響もある。「何かを作り出せなければ生きている意味がない。」。そう思い込んでいた私を、夫ははっきりと否定した。「何も作り出せなくても、生きていること自体に価値がある。」と、夫はそう言った。言われてみれば、私は強迫的に生きながら、周りの「何も作り出さずにぼんやり生きてぼんやり死んでいく人々」を内心馬鹿にしていたのかもしれないと気づかされた。夫の言葉は、ある意味で私のアイデンティティーを破壊してしまったのだが、お陰で、生きづらさが減った。条件付きでないと自分の生を肯定できないのは苦しかった。

 

 それでも、こうして再び文章を書いている。何故なのか。半分は、言ってしまえば惰性なのかもしれない。先程夫にアイデンティティーを壊されたと書いたが、完全に失ったわけではない。私は小学生の頃から文章を書くことが大好きだったし、それは今日まで変わらない「私らしさ」のひとつだ。本来、私にとって書くことは義務ではなかった。絶対「書かなければならない」、という呪いは解けた。でも「書きたい」。私は書くことが好きだから。私にしか書けないことがあるはずだ。

 良いものを書こうともがいて苦しむのはもうやめた。これからは純粋に楽しむ気持ちを大切にしながら文芸と向き合いたい。もちろん、向上心なしにだらだらと稚拙な文章を連ね続けたところで読者に苦痛を与えるだけなので、「よい文章」とはなにか、ということを私なりに突き詰めていきたい。