独白集

今は主にエッセイを書いています。

この苦しみに名前をつけて

 最近Xで、自称鬱な人たちが叩かれていた。病院に行かずとも社会生活を送れているのにファッション感覚で鬱とか言うな、言い訳するななどと書かれており、胸が痛んだ。

 私は鬱ではないけれど、自称不安障害である。会議で人前で話す時や、「少し仲良くなってきたかも」くらいの関係の相手と雑談する場面で、極度の不安に襲われる。何かを予約することも苦手であり、乗り物の事故や災害など、ありとあらゆることに対して常に不安を抱いている。不安が高まるとパニックになったり、感情が抑えられなくなって家族に当たったり、頭の中でネガティヴなことを繰り返し繰り返し考えたりする。

 とても辛いので病院に行きたいと何度思ったか分からないが、結局、私は病院には行ったことがない。病院に行くほど重い症状ではないから?そうとも言えるかもしれない。不安の症状は中学生、高校生の頃が一番ひどく、確実に少しずつ、改善している自覚があるので、今更金と労力を掛けて受診する気になれないのだ。思春期の頃は、今よりずっとしんどくて死にたい気分で、夜も一睡もできずに過ごしていた。あの頃よりはマシになったよな、と思うと、まあ辛くて苦しいのはもはや私の人生でデフォルトだし、いいか、と思えてしまう。

 決して、受診しない自分が偉いと思っているわけではない。第三者に助けを求めず、自分の調子が悪くなったら家族に当たってしまう。私は家族にとって、酷い人間だ。私にとって、私の母親がそうだったように。


 
 やはり血を分けた親子というのは、メンタルの気質も遺伝するらしい。暗い話なので他人に話すことはほとんどないが、私の母は癇癪持ちであった。夫婦喧嘩の時に包丁を振り回したり、馬乗りになって私の首を絞めてきたり、とにかく怒ると激しかった。あんたなんか産まなければよかったと言われたこともある。その他もろもろ……母親からされた嫌なことを挙げだしたらキリがない。

 母は常に不安を抱えている様子で、ちょっとしたことで不機嫌になり、私は母がまた怒り出さないかとヒヤヒヤしながら育った。私が大人になってからも常に不安を抱きながら生きているのは、安心感を得られない家庭で育ったからだろう。

 では、私は被虐待児なのかといえば、別にそうは思わない。なぜなら母は常に機嫌が悪いわけではなく、普通にご飯も作ってくれたし、私がテストでよい点を取ると褒めてくれた。私は外から見れば恵まれていた面もあり、私の苦しみは誰にも見えなかった。

 一歩外に出たら、母はちょっと風変わりなだけのただの専業主婦だ。癇癪を起こすとどうなるか、家族と親戚以外は知らなかったと思う。母に家の外でキレられることもよくあったけれど、道端で子どもの頭を叩くくらいの体罰は、当時はありふれていたのだろう。

 大人になってから、ひょっとして母親は病気なのではないかと思い、病院受診を勧めたけれど、本人には全く困り感がないので、「人を精神病扱いするな」と怒られる始末だった。どうやら母親は、癇癪玉を大爆発させた後は、誰に対して、何に対して怒っていたのか綺麗さっぱり忘れてしまうらしい。ケロッとして優しくしてくる母親に、ホッとするような、ゾッとするような気分で、無表情で接した。また一つ、私の傷つきがなかったことにされるのだ、と思いながら。


 
 病院に行かないから、私の苦しみには名前がない。病院に行ってくれないから、私の母親の異常さにも、名前はない。

 私の精神的なしんどさは、病気なのか、ただの性格なのか、分からない。自分の母のことを毒親と呼んでよいのか、他にもっとぴったりな呼称があるのかも、分からない。何もかもが曖昧で、ただただ、苦しい。

 誰もがそんな曖昧な苦しみや歪さを抱えながら、孤独に生きているのかもしれない。だけどやっぱり、孤独って辛い。自分の苦しみを理解してほしいし、胸の傷の存在を認めてほしい。鬱だとか毒親育ちだとか、発達障害だとか、世の中にたくさんのカテゴリーがあるのは、みんな仲間を探しているからで、似たようなカテゴリーの仲間に入れてもらいたがるのは当然のことだと思う。

 もちろん、人によって苦しみの形は千差万別だし、程度だって違うだろう。鬱病で長く入院している人と、鬱々とした気分でも働けている人とを一緒に括っていいのか、という問題はある。ちょっと親に冷たくされたくらいで「私の親は毒親なんです」などと言われたら、親に殺されかけた経験のある人にとっては、頭にくるのも当然だ。

 だけど、私は鬱だ、などと名乗りたくなってしまうのは、「私にはこんな苦しみがあることを、誰かに理解してほしい」という一心、ただそれだけなんだと思う。だから、少しだけ似たような傷を抱える者同士、いがみ合わないでほしいと、祈っている。

 (そして、願わくば、私のことも誰か、仲間に入れてほしいです。)

私は音楽でキマることができる

 

 音楽が好きで、好きすぎるこの気持ちをどうすればいいのか分からない。久しぶりに夜に1人でゆっくり音楽に浸っていたら、愛が溢れ出す感じがした。完全にキマっている。よく薬物を使えば音楽がすごく綺麗に聞こえるとか、作曲のインスピレーションが湧くとか耳にするけれど、その真偽はさておき、いやいやこれ以上脳内物資溢れさせたら心が壊れますよと思う。私はただ音楽を聴くだけでキマることができる。昔からずっとそれは変わらない。

 

 息子はもうすぐ年長に進級するのでお昼寝の時間が減っており、早くにパタリと寝てくれるようになった。息子を産んでから5年間、待ち望んでいた夜の自由時間。5年も経つと、もはや夜に何がしたかったのかよく分からなくなる。とりあえず音楽が聴きたい。本当はギターが弾きたいけれど、息子を起こしたり隣人に怒られたりするのが嫌なので、ヘッドホンをしてキーボードに触りたい。

 

 ずっと悩んでいる、親や祖母との関係。キマった状態だと、恨みつらみも憎しみも曖昧になってゆくので、お歳暮をもらいっぱなしだったから適当なものでも送りつけとけ!と注文したり、ぶっきらぼうだけれどとりあえず面倒な連絡を済ませたりすることができた。余計な思考を止めてくれる音楽、私にとってはやはり薬でしかない。

 

 学生の頃、音楽は私にとっての精神安定剤だ、と言ったら母親に叱られたことがあった。何と言われたのかはっきりは覚えてないけれど、母親のお叱りの言葉には精神を病んでる人を侮蔑するニュアンスが含まれており、もの凄く腹が立ったのを思い出す。

 

 その母親は音大を卒業し、夢を追いかけて道半ばで挫折。私を妊娠したことも夢を諦めた原因のひとつらしい。プロを目指しクラシック一筋で生きてきた母にはテレビから流れてくる音楽が軽薄に感じられたらしく、音楽番組が始まると不機嫌になってテレビを消していた。そんな母にとっては、純粋に音楽を楽しめる私が羨ましいのかもしれない。けれど私だって真っ直ぐ音楽の道に進めた母親の(金銭的に)恵まれた環境が羨ましかった。

 

 私は母親とは違って、子育てを理由に夢を諦めたり自分を犠牲にする人生は送らない。やむを得ず我慢しないといけないことはもちろんあるけれど、自分の不自由さを子育てのせいにはしたくない。努力と、自分のなかの「認識の上での折り合い」で、子どもを育てながらも自由に生きることはできるはずだと思う。私は音楽を聴くだけで、こんなに幸せで伸びやかな気持ちになれるのだから。

若者の反抗的な視線は美しい

 

 最近、変身願望というのか、「グレたい」欲のようなものがある。今に始まったことではなく、大学生の頃も髪を明るく染めたり煙草を吸ったり、ロックミュージックに傾倒したりしていた時期があって、あの頃の私もまあまあグレていた。社会人になり、真面目に生きる道に渋々戻ってから久しいけれど、自分の思う本当の自分の姿と、周りに見せてきた姿が乖離しているような違和感をずっと抱いていた。本当の自分の姿を明確に自覚しているわけでもないのだけれど。

 

 後輩に、ピアスをどうやって開けたのか教えて欲しいと気軽に聞いたら、とても驚かれた。これまでピアスを開けようと思わずに生きてきたのに、どうして開けたいと思うようになったのかと聞かれてうまく答えられなかった。でも自分の中で理由ははっきりしていた。ずっと真面目に生きてきたことが馬鹿らしくなった。報われなかった。だから心が荒んでいるのだと思う。

 皆は面白がって、私がピアスを開けるのを楽しみにしていると言っていたけれど、私の心の中までは誰も理解していないなと思った。誰かに理解されたいという気持ちも消えつつあるし、理解してもらえると思っていない。それでも、心の何処かで、誰かに私の苦しみに気づいてほしくて、自分の身体に穴を開けたくなるのかもしれない。

 

 仕事柄、若者と話す機会も多いけれど、中には大人への敵意をむき出しにしてくる人もいる。彼らも傷を抱えていて、それを表現する術を持たないのだろう。私のように屈折したまま真面目なふりをして生きている人間より、よほど真っ直ぐだと思う。昔は私もあんな目をしていたのか。今では、現状に不満を垂れながらも、結局、今ある地位や環境にしがみついて死んだ目で労働を繰り返す、つまらない大人になってしまった。

 

 

毒親育ちのサバイバル その1

 

 東京近郊に住む両親の存在を華麗にスルーして、東京の友人に会いに行く旅の計画を立てた。出発の数日前に両親から激怒される悪夢を見て、うなされて寝不足、元々引いていた風邪が悪化して高熱を繰り返し、旅行は断念した。悔しい。また親に人生を邪魔された。そう思ってしまう自分が情けない。体調管理ができていなかったのは自分なのに、どうしてもすべてを自分の育ちや親に結びつけて考えてしまう。

 母親と連絡を取るのをやめて1年以上経った。そろそろ周囲からも「あれっ。」と思われる頃だ。「めざめさん、実家には帰らないの。」何人かに聞かれた。職場の昭和の香りのする年配のおじさんからは「親不孝」とはっきり言われた。一番困ったのは親と時折連絡を取り合っている義母からの探りで、「最近、めざめさんがあまり話をしてくれないって言っていたけど……。」と言われ、返事のしようがなく、低い声で「そうですね。」と言うしかなかった。義母がそれ以上何も聞いてこなかったことがありがたかった。

 親とたった1年距離を置くだけでもこんなに心に負担が掛かるとは思わなかった。育ててくれた恩を仇で返すとは何事か、という世間の冷たい目に晒される感覚があった。育ててくれたから、一番近くにいた存在だからこそ、辛いことがたくさんあった。でもそれを他人に説明して理解してもらうのは難しいし、たとえ理解できるような相手でも、仕事の合間に気安く口にできるような話題ではなかった。

 

 もちろん、どんな家族にだって歪みはある。その内情は外から見たって分からない。自分の家族に不満がない人の方が少数だろうし、皆、モヤモヤする気持ちを隠しながら生きている。それに、虐待されて亡くなる子どものなんと多いことか。自分がこの世に連れてきた命を、命として扱えない未熟な親が世の中にはたくさんいる。私はたぶん、被虐児ではない。生きていくために十分な世話はしてもらえていた。

 私がまだ学生だった頃、「大人になっても親とのことを悩むなんて馬鹿だ、親なんて関係ない。」と言われたことがあった。遅れてきた反抗期真っ盛りだったその頃の私は、そうか、私の心が子どもなのだ、私がもっと大人になって、親を親としてではなく、一人の人間として見ることができれば、腹の立つこともなくなるのだ、と思った。

 それと同時に、親への不満を周囲に漏らすことの多かった自分を恥ずかしく思った。外から見れば、何の問題もない家庭で、何一つ不自由なく育ったように見える私が、親への不満など言ったら笑われる。そう思うと、ますます話せないし、「私が悪いのではないか。単なる私のわがままではないか。親とうまくやっていくための努力が足りないだけではないか。」と自分を責めることにもつながった。

 

 しかし、実際はどうだろう。母は、私が一人の「大人の女性」として生きようとすることを拒んだ。母との関係を修復すべく、様々な手を尽くしても、報われなかった。

 30歳を過ぎ、れっきとした「大人」になってもまだ、親との間での悩み、苦しみは絶えなかった。それでも誰にも話さずに耐えながら、傷つきながら、どうにか関係を保ってきた。それは、夫や子どもを争いに巻き込まないためでもあり、世間体を守るためでもあった。

 私自身、親を「毒親」なんて呼びたくなかった。「いろいろあったけど、不器用ながらも親は私を愛してくれたし、私も感謝している。」と思えるように、私なりに頑張ってきた。

 だけど、1年程前、私の苦労をすべて水の泡にされるような出来事があり、限界に達してしまった。もう二度と親の顔も見たくないし、話したくもないと思った。

 

 「毒親育ちのサバイバル」というふざけたタイトルで記事を書いているが、虐待レベルではないけれど、私を傷つけ続けてきた母親は、いわゆる「毒親」なんだと思う。「毒親」ブームにより多数の書籍が出たと思うが、苦しくなるのでどれも読んでいない。ネット上に転がっている毒親診断をしてみると、大体高得点で当てはまるので、多分そうなんだろう。

 

 「毒親」はずるい。「あなたのため」という枕詞をつけて支配し、それに従わないことに対する罪悪感を子どもに植え付ける。やがて子どもは親の考えと異なる考えを持つことができなくなる。そうやってコントロールは続いていく。その状態から抜け出すために、親に抗おうとすれば、必ず罪悪感が付きまとう。親と縁を切る決心なんて、容易にできるものではない。やっと決心すれば、今度は何も知らない周囲から、「親不孝者」扱いされる。

 

 私は実家から遠方の地に移住して結婚したので、物理的に距離を置くことには成功した。また、人並みに就職して経済的には困っていないし、精神的に不安定なのは否めないが、今のところ心療内科などにお世話になるほどではない。そういう意味では、私は「毒親育ちのサバイバル」に成功していると言えるのかもしれない。

 けれど、「毒親」の影響からの立ち直りの本質は、精神的支配から逃れられるか否か、だと思う。

 親が自分を支配していることにすら気づかず、一生、親の顔色を気にして生きている人たちが、案外世の中にはたくさんいる。「目を覚ませ!」と言いたい。支配され続けてきた子どもが親になった時、どうなるか。無力な子どもを今度は自分が支配しようとするだろう。私の母も、そうだった。

 そして私は、本当に目を覚ましているのか。私自身は、息子を支配していないだろうか。

 

 私がどんなことで傷つき、どうやって「サバイバル」に成功したのか、続きに書きたいのだけれど、それを語ることは私の人生の半分を語ることになるので、あまりにも時間が掛かるし、思い出すだけでも涙が止まらなくなることもあり、書いているうちに嫌になって、完成しないかもしれない。

 

 多分、続く。

 

 

 

 

無意味な生、目的のない空間

 

 東京から地方に移り住んで早7年、地方の中心部からより田舎へと転居してもうすぐ半年になる。子どもを保育園へと送る道沿いには川が流れており、大きな流れから小さな流れへと変化する中で多種多様な生き物が顔を出す。少し前にたくさん生まれたザリガニの赤ちゃんは、この夏の暑さで川の一部が干上がり、多くが死んでしまったらしい。日陰の方に生き残った赤ちゃんが辛うじて生きていて、命をつないでいるようだ。

 出張のために鈍行列車に乗ることが多く、窓の外の景色をぼんやりと眺めて過ごしている。草、草、草。誰のための、なんのためのスペースなのかよく分からない空間に、ぼうぼうと草が生い茂っている。その中をかき分けて電車は走る。次の駅に、正しい時刻に着くために。

 考えてみると、東京で暮らしていた頃、こんな無意味な空間はどこにもなかったような気がする。目に入ってこなかっただけ、つまり人の手で覆い隠されていたなのかもしれないが。周りを見回すと、広告、店舗、駅、きっちりと舗装された道路など、何かの目的のために作られたものばかり目についた。特に広告や店舗は、道行く人たちに「こっちにおいで」と激しくアピールし、四方八方から手を伸ばされているような感覚だった。

 住んでいたアパートの近くには川が流れていたが、コンクリートで周りを固めてあるせいか、深くて黒々としており、川沿いの等間隔に並んだ樹木にも人の手が加わっていて、無機質な感じがした。生き物の姿は見えず、どこか温かみに欠ける川だった。

 街を行く人々もどこか背伸びしているようで、人混みの中、私も何者かにならないといけないのだと焦っていた。時間を無駄に過ごすことは嫌いだったし、損得にも敏感で、どこかピリピリしていたと思う。

 

 田舎での生活は、人生の意味や目的を探すことに疲れ切っていた私の心を癒してくれた。私は元々、都会に憧れて東京に出たのだし、田舎特有の人間関係も決して得意ではないのだけど、案外、田舎の土地に流れる長閑な時間が、性に合っていたらしい。

 小さな川の中で生きるイモリやタニシ、アメンボたちを眺めていると、命に大した意味などないことがよく分かる。日照りが続けは彼らの生は簡単に終わるし、儚いものだ。でも、だからこそ美しくて、価値がある。彼らが生きる姿を見ていると、神様が生み出した芸術作品を眺めているような気分になる。真に美しいものは神にしか作れないのではないか。つまり人間は自然の中に存在する美を模倣することしかできないのではないかとさえ思う。

 

 なんの意味も目的もない空間。ただ自然の法則のみに従って四季折々の変化を遂げるような、そんな世界がもう少し広がっても良いのではないかと思う。もちろん、人間が暮らしやすい社会を作るには、自然を犠牲にすることもやむを得ないのだろうけれど、あの儚くて美しい世界が消えてしまうのは悲しいのだ。

 

 保育園への行き帰りに息子と様々な生き物を指さしながら歩いていると、時々、近所のおばちゃんが嬉しそうに話しかけてくる。「昔はここにもメダカがいたの。今は川の水が少ないから育たないのね。」という言葉を思い出す。消えてしまったメダカに思いを馳せながら、私も儚い命を思いっ切り生きてやろうと思う。

 

 

 

 

常識について

 昔からどこかずれていて、友達の輪の中にいると会話についていけず、結果浮いてしまうタイプの私であるが、社会人10年目がそろそろ視野に入ってくる今日この頃、なんとか人間のフリをしてそつなく会話をこなすこともできるようになってきた。それでも未だにアイドルグループの誰々がどうとか、まつ毛パーマの効果がどうとか、そういう自分の興味のない話題にはついていけないし、誰もが当たり前に知っているような「常識」がすっぽりと抜け落ちているから夫に驚かれたりもする。

 

 教育熱心な親の元で育った私は、高校生の頃は毎日毎日友達と遊んだりせずに引きこもって勉強していたので、芸能人のあれこれやら恋愛テクニックやらには疎かった。食べ物に関しても全く無知で、調理実習の際には酢醤油を作る際に醤油とお酢の分量が分からず酸っぱく仕上げて周りから大笑いされた記憶がある。大人になってからは、興味のなさや経験の少なさからくる知識のなさが周囲の会話についていけない原因だろうと思い、(それがきっかけというわけでもないが)テレビを観始めるようになって、雑学が少しずつ頭に入ってくるようになってきた。「友人グループ」という、友達付き合いが上手な人が中心になるような曖昧な人間関係では端っこの方にいた私だが、職場という公的で対等な人間関係の中では、会話も少し楽になった。

 ところが、職場に適応できたと思えたのも束の間のことで、職場に独特のマナーやルールが蔓延っていることに気づくと、また私はどのように振舞えばよいか分からず困惑した。旅行した時のお土産の選び方、渡す範囲、お返しの仕方。飲み会の際の奢り方、奢られ方。お世話になった方への負担にならない程度の丁度よい感謝の示し方。暗黙のルールもあれば、暗黙に蔑ろにされているルールもある。服装一つとっても、派手に見られないだろうかとか、逆にクソ真面目に見られないだろうか、とかいちいち悩んで、疲弊した。

 

 「常識的な振舞い」の正解はいつも曖昧だ。最近フォロワーさんがリツイート(頑固な私は今でもツイートと言ってしまう)していた漫画「銀太郎さんお頼み申す」(東村アキコ作)に結婚式参列時の服装に悩む女の子が登場しており興味深く読ませていただいた。この漫画の主人公は、上の世代の女性から振袖を着ていくのが当たり前だと教えられるが、若い友人からは親族以外の参列者が振袖を着ていくのはマナー違反だとアドバイスされ、混乱する。私も初めて友人の結婚式に行った際には勝手が分からず相当悩んだものだが、「常識」は時代の移り変わりに従ってアップデートされていくし、一つの答えがあるわけではない。

 私がこの漫画を読んで羨ましいなと思ったのは、主人公が同じ結婚式に参列する友人たちに何を着ていくか尋ねていたことだ。「常識」が分からず困惑するところまでは私と同じだが、私は悩んだときに相談できる相手が夫しかいない。いや、夫に聞く前に、まずはGoogle大先生に聞いている気がする。学生の頃から検索エンジンにはお世話になりっぱなしだが、その性能は日々進化している。頭の中で何か疑問が生じると即、私は検索して答えを求める。誰よりも頼りになる相談相手かもしれない。ただ、その回答は無機質で、どこか心もとない。

 

 前々から薄々気づいていたことだが、もしかして、私は「常識」が欠けているのではなく、自分の「常識」に不安や疑問を抱いた時に誰かに相談するスキルが欠落しているのかもしれない。考えてみれば、中学生の頃から対人恐怖症が激しくて教師に質問に行くことすらできなかった。私は、「質問」や「相談」というものが苦手である上に、そもそも、他人と気軽に相談ができる関係を築いてこなかったのだ。

 職場でも、なんとなく知り合って、なんとなく飲みに行ったりして、仲良くなったような気になっていたが、その後マメに連絡を取り合うでもなく、フェードアウトした同僚が何人もいる。周りを見渡すと、若い後輩たちはグループの中で、雑談交じりに気軽に情報交換をしている。

 要は、私が他人と深い関係を築けないから、「常識」が分からず、ますます孤立していくのか。はたまた、その逆か。鶏が先か、卵が先か、みたいな話になってきたけれど、やはり、問題の本質は、私のこのような暗~い心性にあるようだ。

 

 今更、実の親の話を持ち出してくるのも癪だが、私が「相談」というものが苦手なことには親の影響も大きい気がしている。両親とも、私と同じく、少し(いや、かなり、かもしれないが)感覚が世間一般人とずれており、例えば、コロナウィルスが流行り始めて緊急事態宣言がバンバン出ていた頃に、「大昔にインドに旅行に行った時に、いろんな免疫をつけたから大丈夫」とかなんとか言って、遠くまで旅行に行ったりしているような人たちだった。「常識」や「世間」、「空気」みたいなものを一切無視して生きてきたような人たちであったので、その娘である私がずれていない方がおかしいだろうと思う。大人になり、父親にはいろんなことを相談するようになったが、どのような助言をされてもそれが唯一の正解だとは思わないようにしている。母親はといえば、過保護ゆえか、自分の考えを押し付けてくるので、相談すらしようと思えない。こんな育ちなので、「悩みがあると家族に相談します」と言い切れる人がうらやましくなることもある。(私も、夫という相談相手がいることには、感謝しているが。)

 

 Google大先生はいつも唯一の正解らしきものを教えてくれるが、何をするにもGoogle先生の言いなりになっている自分が時々馬鹿らしく感じることもある。Googleは私の職場の雰囲気を知らないし、私の周りの人間がどんな考えを持っているか、私自身が何を大切に生きているかを知らない。Googleに反旗を翻して、自分の感覚で立ち振る舞いを決めた方が、心のこもった人付き合いができるような気もする。結局、「常識」というものに囚われないで生きるのが一番楽なんだろう。とはいえ、そのような度胸があれば、こんな悩みは抱いていない。すべては、他人に愛されたいのに、ただ、傷つかないように生きることしかできない私が悪いのだろう。

 

 

 

 

ジョハリの窓から

 「人間には、自己表現に生きるタイプの人間と、他人の役に立とうと行動するタイプの人間がいるが、君は後者じゃないのか。」と、最近夫に言われて内心憤慨した。私はずっと芸術を愛してきたし、自分の表現するものを大切にして生きてきた。他人のために、生きてきたわけではない。この人は私のことをまるで理解していない、と嘆きたくなった。

 しかし、ふと冷静になってから思った。「ジョハリの窓」という概念があるが、「自分はこういう人間だ」と思い込んでいる自分の姿は、案外他人から見た姿とずれていたりする。「本当の私の姿」を知っているのは、案外他人だったりするのかもしれない。そう考えて、夫の放った言葉に今一度注意深く耳を傾けてみると、なるほど、私は確かに「他人の役に立ちたい」と願って今の職業を選択したのだと思い出す。客観的に見れば、私は「他人のために生きる人」なのかもしれないが、どうなのだろうか。

 23歳の頃から、私は心理学の専門分野で働き始めた。出会う人、出会う人、問題を抱えていて、暗い表情をしていた。借金だらけの人。過ちを犯した人。親の愛情を知らない人。……頭でっかちで、世間知らずだった若い頃の私は、様々な出会いによって、何度も心を大きく揺さぶられた。


 就職する頃の心境を綴った文章「かなしい人のそばにいること」を読み返すと、「不幸の感情に満たされている人を救いたい。」と、私は書いている。私なりに、真剣に、大胆に、そして傲慢にも、自分なら誰かを救えるのではないかと思っていたようだ。他方、こうも記している。「結局私は、自分が救われたいだけなのではないか?」と。


 働き始めてから、思い描いていたような仕事ができない悔しさをずっと感じてきた。仕事の内容自体に制約があり、思うように他人を助けることができないという実感もあるが、何より自分の能力の限界を感じている。
 今のままの仕事を続けていても、人の役に立っている気がしない。「私は一体、誰のために、何のために働いているのだろう」という疑問が、日々つきまとう。
 もっとほかの、「人の役に立つ仕事」ができればよいのだろうか、と思う。しかし、この世の仕事はすべて、誰かに必要とされているから「仕事」として成り立っているわけであって、「人の役に立つ仕事がしたい」という言葉にはある種の矛盾が含まれるような気がする。そうすると、自分のやりたいことは一体何なのか、よく分からなくなる。

 

 私が本当に心から好きだと思えるのは、人のために尽くすことではなく、好きな音楽に没頭したり、何かをゼロから作り上げたりすることだ。自分の好きなようにやった結果、誰かが喜んでくれれば、なおいっそう嬉しいと思う。
 今の仕事の中でも、ちょっとしたものの制作に携わったり、研修などの企画運営をしたりすることがあるが、そのようなクリエイティブな仕事をしているときが1番楽しく、自分が輝ける気がしている。しかしそれらは本来的な業務ではないし、ある程度型が決まっているので、それ以上のことはできない。
 自己表現については、昔から、私の中では物凄く価値を置いている。何かをクリエイトできることは素晴らしいことだと思うし、何かを生み出すたびに、自分の価値が上がったような気がする。けれども、この頃は、日々の中で何かを表現、創作する時間が昔に比べて圧倒的に減っている。家庭を持ったことも大きいが、昔ほどの情熱がなくなっているのが怖い。若い頃は、気が狂ったように何かを作っていたものだが、今はもう、何も作り出せない自分に慣れてしまっている。
 私は変わってしまったのか、それとも、自分を失ってしまったのか。
 はたまた、表現したいというのはただの憧れであって、私には他人に尽くす生き方のほうが似合っているのか。

 

 2025年は、自分のために生きたい。妻として、母親としての役割や、仕事上での役割に縛られない、という意味で。
 役割の中で生きることは、それ自体が誰かの役に立っていることであり、素晴らしいことなのかもしれないが、私は機械の歯車ではなく、たった一人のかけがえのない個人なのだということを、時には信じさせてほしいと思う。

 

 今の仕事をいつまで続けるのか、別の道に進むのか、そろそろ人生の方向性を定めなければいけない時期にさしかかっている。だけど、その前提として、自分は何者なのか、この泡のような人生は一体何のために存在しているのか、もう一度自分を見つめ直す必要がある。
 2025年、そんなゆったりとした時間が取れればよいのだが……生憎、公私ともに忙殺されそうで、日々追い立てられるように走り続けるのが、現実的なところである。そんなに急いで、一体私はどこへ向かうのだろうか。