独白集

今は主にエッセイを書いています。

他者は幻

 子どもの頃、私はよくこんな空想をした。友人や家族、道ですれ違う人たち、すべては幻である、と。

 他者が存在していると信じ切ることができなかった。未だに確信を持てずにいる。だって、証拠なんてどこにもない。

 自分が存在していることは、なんとなく信じられる。私は自分の過去の記憶の断片たちを、ある程度整合性が保たれた状態で想起することができる。机の角に手をぶつけたら痛みを感じるし、珈琲が飲みたくなれば今から台所に行って淹れてくればいい。それは、私が「心」を持った実在する人間だからだ。そういう風に自分の体験を理解することは、私にとっては容易いことだ(実はこの文章を書いている間に、自分の存在への確信が揺らいでしまったのだけれど、ややこしくなりそうなので、考えるのをやめた)。

 だけど、他者が私と同じように「心」を持つ存在であるという証拠はどこにあるのだろう。どこにありますか。どなたか、哲学に精通している方、教えてください。無知な私の直感では、どこにもないように思えます。

 大切な人が今目の前に「存在」しているように見えるとして、その網膜に映った像が幻でないという証拠はどこにあるのか。彼に触れることができたとして、その感覚が偽物でないと言い切れるだろうか。夢の中でだって、触覚は働く。私が今いるのは虚構の世界で、目の前のその人はただの幻で、つまり私は長い夢を見ている途中かもしれない。

 誰かが私を眠らせて、永遠のようなフィクションの世界を体験させているのかも知れない。

 もしこんな話をしたら、「私はここにいるよ、思考も感情も記憶も持っているよ、あなたこそ、幻じゃないかしら」などとあなたは答えるかもしれない。でもその言葉自体、フィクションの台詞であって、他者が実在すると私に思い込ませるための、巧妙な罠かも知れない。

 幼い私は、そんな妄想を大真面目にしていた。これに近い世界の捉え方に、「独我論」と呼ばれるものがあるらしい。勿論幼い私はそんな言葉を知らなかったし、今も詳しくは知らない。ただ、「この世とは何か、人生とは何か」という疑問のために私は頭を悩ませていた。それだけ、暇な子供だったのだ。

 大人になると、暇はなくなるが、別離の体験が増える。
 別離にはふたつの形があるように思う。ひとつは何らかの事情で関係性が途切れてしまう状態。もうひとつは死だ。ここ数年の間に、そのどちらの別離の形も多く体験して、私はまた、他者の存在の不確実性についてあれこれ考えるようになった。

 死によって人の存在は永久に失われる……というのは本当だろうか?夢に故人が登場し、その生々しい存在感に驚いて目を覚ますことがある。その一方で、顔と名前しか知らず、密かに憧れを抱いていたにも関わらず連絡先も交換せずに別れた人がいる。彼とこの世で再び巡り合う確率は、限りなくゼロに近い。私にとって彼の存在は半永久的に失われてしまった。それは彼の死とどう違うのだろう。

 ……考えだすと、きりがない。

 愛する人と別れる苦しみを和らげるために、すべては「幻」、というこのかなしい空想は非常に役に立つ。この世に実在しているのは、本当は私しかいない。全部夢だ。他者はいない。神もいない。だから何も恐れることは無い。悪いことだって出来そうだ。(でも、しない。だって、他者が本当に実在していないという証拠だってないのだから。)


「想像してみて下さい。あなたが今目で追いかけている活字の向こう側に、本当に人間がいるのでしょうか。いいえ、そこには誰も存在しない。あなたを取り囲むすべての刺激ははフィクション、幻です。」

 虚しいですか。虚しいですね。でもちょっと、楽になりませんか。

2015.10.16