独白集

今は主にエッセイを書いています。

「いい子にしていてね」

 最近、息子の瞬きが多い。もしも音が鳴るなら、パチパチ、という可愛らしい音ではなく、ギュッ、という痛々しい音がすると思う。両目をつぶるのと同時に、口元がギュッと上がるのだ。
 チックじゃないかと疑っている。チック、とは自分の意思とは関係なく体の一部が動いてしまう精神的な病気だ。子どもに多く、神経質な人がなるらしい。ストレスが原因になるという説もあるし、そうではないという説もある。
 もしもストレスが原因だったら、私のせいだろうかとふと思う。
 
 親から受けた教育の影響は大きい。知ってはいたけれど、子どもを持って初めて、そのことを痛感した。
 息子を夫に任せて買い物に出かけるとき、私は「いい子にしていてね。」と言って息子をなでる。深い理由もなく、呪文を唱えるように。
 そんな私に、夫はある日、「いい子ってなんだろうなあ。」と言った。そういえば、夫は一人で外出するときに息子に「いい子にしていてね。」とは決して言わない。「夕方には帰るからね。じゃあね。」と言って、自分が必ず戻ってくることを伝えて、挨拶をする。父親の姿が見えなくなることで、息子が不安にならないように配慮しているのだ。
 そんな夫から見たら、私が必ず「いい子にしていてね。」と言って家を出るのは不思議に見えたのだろう。聞かれて初めて、私自身も首をかしげた。なぜ私は「いい子にしていてね。」と息子に言うのだろう。記憶を辿って、はっとした。それは、私がいつも父親から言われていた言葉だったからだ。
 専業主婦の母に娘を任せて、仕事に出掛ける際、父は必ず、私に「いい子にしていてね。」と言った。そうして私の頭を撫でた。私にとってはそれが当たり前で、だから息子にも無意識に、同じようにしたのだった。
 
 
 「別に、いい子じゃなくていい。」
 「勉強ができなくてもいい。」
 「大学に行かなくてもいい。」
 「健康で大きくなってくれれば、それでいい。」 
 息子の教育に関する旦那の言葉に、時々胸が疼く。私は、そんな風には思えない。息子には、やっぱり「いい子」でいてほしい。勉強ができてほしいし、大学に行ってほしい。何か得意なことを見つけて、伸ばしてほしい。私の好きな音楽を好きになってほしい。楽器が演奏できるようになってほしい。本当はそう思っている。私は、息子に期待している。息子が自分の思い通りに育ってくれることを願っている。そんな自分は、多分、間違っている。
 
 息子がわがままを言って泣く時、私はとてもイライラしてしまう。何度も夜泣きをされて、寝かしつけるのが嫌になり、頭から毛布をかぶって息子を拒絶したこともある。ダメな母親だと分かっている。
 
 私はなぜいい子になろうとしたのだろう。なぜ、勉強して、大学に行こうと思ったのだろう。なぜ、上を目指したのだろう。
 それは、親からそう期待されたからだ。
 暗に「周りより努力しなさい。」「周りより上に行きなさい。」と言われて育った。その言葉の裏に、「努力していない人を見下しなさい。」「努力ができないあなたの価値は、認めない。」という意味が隠れていることに今更ながら気づく。私はその声に洗脳されて生きていたのだと、今になれば分かる。高邁な理想や夢を追って努力しているように見せかけて、本当は、親から愛されたかっただけだった。
 でも、洗脳されたからこそ、私はがむしゃらに努力ができた。努力したからこそつかむことのできた未来に、私は今生きている。
 
 私は息子を洗脳したくない。でも、息子には幸せに生きてほしい。私の思う「幸せ」と、彼自身の「幸せ」がぴったり重なりあえばいい。でも、ふたつの「幸せ」がずれてしまった場合、私が彼を想ってしたことは、「洗脳」になるのかもしれない。
 
 今日も息子は保育園で靴を脱ぎたがらず大泣きし、夜には風呂に入りたがらずまた泣き叫んだ。身体をぜんぶ使って、ありったけのエネルギーで親にNOをつきつける。これこそが健全に成長していること、親との信頼関係が築けていることの証なのだと聞くが、本当だろうか。
 必死に言葉を探し、息子の気持ちを代弁しようと声を掛けると、ピタリと泣き止むことも増えた。彼が身体を全部、エネルギーを全部使うなら、私も身体を全部、エネルギーを全部使って彼のNOを受け止めなければならない。この先、ずっと私は受け止められるだろうか。もし彼が、私の思う「いい子」にならなかったとしても。