独白集

今は主にエッセイを書いています。

永遠のさよならの前に

 

 その瞬間はあっという間

 過ぎ去って行くのを知っていながら

 何もできずにいたんだ  

     

「それは永遠」 GRAPEVINE

 

 

 温かな空気がほのかに残る夕暮れ時、仕事を終えた帰り道、泣きたい気分でGRAPEVINEを聴いていた。保育園の花壇にはチューリップやパンジーが咲き誇り、春の訪れが感じられる。春、出会いと別れの季節だ。

 私が泣きたい気分だったのは、とても好きだった人にきちんとお礼ができなかったからだ。その人は職場の上司の、その上司のような関係で、直接一緒に仕事をすることは少ないものの、時に殺伐とした空気にもなる部屋の中で、決して他人の陰口を言わず、凛とした雰囲気を纏っていた。年齢的にはいわゆる「おばさん」に含まれるのだろうが、いつも小綺麗にしており、とても「おばさん」とは呼べない女性だった。ずっと今の仕事を続けるのであれば、将来こんな上司になりたい、と初めて思えた憧れの存在だった。

 それなのに、別れ際には挨拶はしたけれど、それ以上に個人的に何かを渡す、という形ではお礼を形にできなかった。いろんな言い訳は考えつくのだけれど、単に私の精神的な余裕がなさすぎて、そこまで気が回らなかった、もっと言えば忘れていた、というのが恥ずかしながら事実だと思う。呆気なく別れは訪れて、彼女は去ってしまった。もう追いかけていくことはできないし、取り返しはつかない。こんなに感謝していること、密かに憧れていたことを、伝える術がない。

 

 元々、私は他人に気を遣うことが苦手で、人付き合いを避けがちだった。最近、ようやく積極的に振舞えるようになってきたけれど、慣れないことをすると、案の定失敗する。やはり私は人付き合いなんてするものじゃない、と再び自分の殻に閉じこもっているうちに、新しい春が来てしまう。あの人と、もっと話したかった。あの人とも、きっと気が合ったはずなのに。後悔が積み重なるけれど、後悔を糧に一歩踏み出したところで、やっぱりまた後悔する気がする。

 

 人との関係における後悔について、浮かぶのは伯父のことだ。

 

 

 私には数年前に亡くなった伯父がいた。伯父は昔から酒飲みで、会えばいつもお酒の臭いを漂わせていた。映画もゴルフもスポーツ観戦も、アイドルも大好きで、生涯独身だったけれど、多趣味で人生を謳歌しているように見える人だった。子どもの頃、私はそんな自由な生き方をしている伯父がとても好きだったし、伯父も、唯一の姪である私を可愛がってくれた。

 伯父は母親、つまり私の祖母にあたる人と同居していた。私が学生の頃、その家に少しだけ居候させてもらったことがある。伯父は店員には横柄な口を聞くこともあり、当時はあまり好きではなくなっていた。大学に入りたての私が、好意を寄せている人と、友達数人と、夜遅くまで遊びに出かけて帰らなかったとき、伯父は何度も電話をかけてきた。ようやく帰ってきた私を、伯父は駅まで迎えに来て、もの凄い剣幕で叱った。

 半年もせずに居候はやめて、私は独り暮らしを始めた。そして、就職後、転勤で遠方の地に引越し、そこで出会った夫と結婚した。伯父とは疎遠になったが、私は目の前の仕事や、結婚式のことなどで頭がいっぱいで、伯父のことなど考える暇はなかった。一度、伯父は祖母と一緒に旅行に来てくれたが、私は観光案内も上手くできなかった。がっかりさせてしまったのか、「もういいよ。明日仕事あるんでしょう。」と伯父に言われ、夕飯は別々で食べることになった。それきり、伯父とは連絡を取っていなかった。

 

 伯父が突然倒れたと知ったのは、私がもうすぐ臨月を迎えようとしていた頃だった。伯父の妹、つまり私の母親も、祖母も動揺していた。伯父は、私が居候をしていた頃よりも前から、肝臓に重い病を患っていたが、それを家族にも隠して酒を飲み続けていたのだという。つまり、長い時間をかけて自殺行為を続けていたということになる。

 伯父は、ただ酒が好きだっただけかもしれない。もしくは、伯父は人生を謳歌していたわけではなく、残された余生を半ば投げやりに楽しんでいたのかもしれないし、同居の耄碌した祖母を世話するだけの人生に実は嫌気が差していたのかもしれない。それは、分からない。私は伯父に、長い間病を隠して飲酒を続けていた理由を聞くこともできなかった。お腹の子どもを抱えて、コロナが流行る中、遠方から見舞いに行くこともできなかったし、伯父の命の危険が差し迫っているということへの実感も持てなかったのだ。

 母からは、伯父に電話をしてほしい、と言われた。私は産前休暇に入る頃で、仕事が立て込んでおり、ゆっくり電話ができそうな日は多くなかった。いざ電話をしようと思うと、母から、伯父は今調子が悪いから、電話はしばらく待ってと止められた。今思えば、せん妄状態にある伯父と話すことで私にショックを受けさせたくなかったのかもしれないが、そんな母の介入もあって、死ぬ前の伯父と電話で話せたのはたった1回だった。

 

「ねえ、びっくりしたよ。どうして。大丈夫なの。」

 そんな言葉を掛けたと思う。伯父は、ほとんど話さなかった。そもそも、伯父と電話をすることなんてそれまでなかったから、電話に慣れていないのか、落ち込んでいるのか、思考力さえも失われているのか、言葉が出ないのか、分からなかった。もうすぐ死ぬかもしれないほどの病を患っている人に掛けるべき温かい言葉を、私は知らなかった。

「何して過ごしているの。」

「テレビを見ている。」

「眠れている?」

「寝ているけど、眠れない。」

 寝ているけれど、眠れない。精神的に追い込まれていることが伝わる言葉だったが、伯父の口調は、私を気遣ってか、そこまで深刻なトーンではなかった。私は、会話ができたことに少しほっとして、次に何か励ましの言葉を、と考えていた。しかし、伯父は私を遮るように、

「切るよ。」

と言った。私は、次こそは何か温かい言葉を掛けたい、もっとよく考えてから電話をすれば良かった、と後悔しながら、

「また電話するから。」

と答えた。

それから、伯父に電話を掛けることは二度とできなかった。

 

 

 私は、無意識に伯父と向き合うことを避けていたのだと思う。もう会えないかもしれない、と思うとなおさら、相手によく思われたいとか、傷つきたくないとか、身勝手な気持ちが湧いてきて、結局私は人との繋がりを避ける。それは、最近の職場での出来事にも当てはまるし、これまでの人生、いつだってそうだった。

 誰かと深い関係を結びたい、でも拒絶されるのが怖い。この幼稚な心理を乗り越えて初めて、他人ときちんと向き合うことができるのだと思う。私には、なぜそれができないのか。

 

 誰との関係においても、「永遠のさよなら」はいつ訪れるか分からない。せめて、これ以上後悔は重ねないように生きていきたい。

 そう思いながらも、過去のことが頭から離れず、目の前にいる夫や息子にも優しく接することができない。せめて、朝日が昇ったら、変われないだろうか、目の前の誰かと正面から向き合うことができないだろうか。生温い春の夜、重ねてきた過ちを懺悔するように、願いを込めるように、こうして文章を書いている。