独白集

今は主にエッセイを書いています。

毒親育ちのサバイバル その1

 

 東京近郊に住む両親の存在を華麗にスルーして、東京の友人に会いに行く旅の計画を立てた。出発の数日前に両親から激怒される悪夢を見て、うなされて寝不足、元々引いていた風邪が悪化して高熱を繰り返し、旅行は断念した。悔しい。また親に人生を邪魔された。そう思ってしまう自分が情けない。体調管理ができていなかったのは自分なのに、どうしてもすべてを自分の育ちや親に結びつけて考えてしまう。

 母親と連絡を取るのをやめて1年以上経った。そろそろ周囲からも「あれっ。」と思われる頃だ。「めざめさん、実家には帰らないの。」何人かに聞かれた。職場の昭和の香りのする年配のおじさんからは「親不孝」とはっきり言われた。一番困ったのは親と時折連絡を取り合っている義母からの探りで、「最近、めざめさんがあまり話をしてくれないって言っていたけど……。」と言われ、返事のしようがなく、低い声で「そうですね。」と言うしかなかった。義母がそれ以上何も聞いてこなかったことがありがたかった。

 親とたった1年距離を置くだけでもこんなに心に負担が掛かるとは思わなかった。育ててくれた恩を仇で返すとは何事か、という世間の冷たい目に晒される感覚があった。育ててくれたから、一番近くにいた存在だからこそ、辛いことがたくさんあった。でもそれを他人に説明して理解してもらうのは難しいし、たとえ理解できるような相手でも、仕事の合間に気安く口にできるような話題ではなかった。

 

 もちろん、どんな家族にだって歪みはある。その内情は外から見たって分からない。自分の家族に不満がない人の方が少数だろうし、皆、モヤモヤする気持ちを隠しながら生きている。それに、虐待されて亡くなる子どものなんと多いことか。自分がこの世に連れてきた命を、命として扱えない未熟な親が世の中にはたくさんいる。私はたぶん、被虐児ではない。生きていくために十分な世話はしてもらえていた。

 私がまだ学生だった頃、「大人になっても親とのことを悩むなんて馬鹿だ、親なんて関係ない。」と言われたことがあった。遅れてきた反抗期真っ盛りだったその頃の私は、そうか、私の心が子どもなのだ、私がもっと大人になって、親を親としてではなく、一人の人間として見ることができれば、腹の立つこともなくなるのだ、と思った。

 それと同時に、親への不満を周囲に漏らすことの多かった自分を恥ずかしく思った。外から見れば、何の問題もない家庭で、何一つ不自由なく育ったように見える私が、親への不満など言ったら笑われる。そう思うと、ますます話せないし、「私が悪いのではないか。単なる私のわがままではないか。親とうまくやっていくための努力が足りないだけではないか。」と自分を責めることにもつながった。

 

 しかし、実際はどうだろう。母は、私が一人の「大人の女性」として生きようとすることを拒んだ。母との関係を修復すべく、様々な手を尽くしても、報われなかった。

 30歳を過ぎ、れっきとした「大人」になってもまだ、親との間での悩み、苦しみは絶えなかった。それでも誰にも話さずに耐えながら、傷つきながら、どうにか関係を保ってきた。それは、夫や子どもを争いに巻き込まないためでもあり、世間体を守るためでもあった。

 私自身、親を「毒親」なんて呼びたくなかった。「いろいろあったけど、不器用ながらも親は私を愛してくれたし、私も感謝している。」と思えるように、私なりに頑張ってきた。

 だけど、1年程前、私の苦労をすべて水の泡にされるような出来事があり、限界に達してしまった。もう二度と親の顔も見たくないし、話したくもないと思った。

 

 「毒親育ちのサバイバル」というふざけたタイトルで記事を書いているが、虐待レベルではないけれど、私を傷つけ続けてきた母親は、いわゆる「毒親」なんだと思う。「毒親」ブームにより多数の書籍が出たと思うが、苦しくなるのでどれも読んでいない。ネット上に転がっている毒親診断をしてみると、大体高得点で当てはまるので、多分そうなんだろう。

 

 「毒親」はずるい。「あなたのため」という枕詞をつけて支配し、それに従わないことに対する罪悪感を子どもに植え付ける。やがて子どもは親の考えと異なる考えを持つことができなくなる。そうやってコントロールは続いていく。その状態から抜け出すために、親に抗おうとすれば、必ず罪悪感が付きまとう。親と縁を切る決心なんて、容易にできるものではない。やっと決心すれば、今度は何も知らない周囲から、「親不孝者」扱いされる。

 

 私は実家から遠方の地に移住して結婚したので、物理的に距離を置くことには成功した。また、人並みに就職して経済的には困っていないし、精神的に不安定なのは否めないが、今のところ心療内科などにお世話になるほどではない。そういう意味では、私は「毒親育ちのサバイバル」に成功していると言えるのかもしれない。

 けれど、「毒親」の影響からの立ち直りの本質は、精神的支配から逃れられるか否か、だと思う。

 親が自分を支配していることにすら気づかず、一生、親の顔色を気にして生きている人たちが、案外世の中にはたくさんいる。「目を覚ませ!」と言いたい。支配され続けてきた子どもが親になった時、どうなるか。無力な子どもを今度は自分が支配しようとするだろう。私の母も、そうだった。

 そして私は、本当に目を覚ましているのか。私自身は、息子を支配していないだろうか。

 

 私がどんなことで傷つき、どうやって「サバイバル」に成功したのか、続きに書きたいのだけれど、それを語ることは私の人生の半分を語ることになるので、あまりにも時間が掛かるし、思い出すだけでも涙が止まらなくなることもあり、書いているうちに嫌になって、完成しないかもしれない。

 

 多分、続く。

 

 

 

 

無意味な生、目的のない空間

 

 東京から地方に移り住んで早7年、地方の中心部からより田舎へと転居してもうすぐ半年になる。子どもを保育園へと送る道沿いには川が流れており、大きな流れから小さな流れへと変化する中で多種多様な生き物が顔を出す。少し前にたくさん生まれたザリガニの赤ちゃんは、この夏の暑さで川の一部が干上がり、多くが死んでしまったらしい。日陰の方に生き残った赤ちゃんが辛うじて生きていて、命をつないでいるようだ。

 出張のために鈍行列車に乗ることが多く、窓の外の景色をぼんやりと眺めて過ごしている。草、草、草。誰のための、なんのためのスペースなのかよく分からない空間に、ぼうぼうと草が生い茂っている。その中をかき分けて電車は走る。次の駅に、正しい時刻に着くために。

 考えてみると、東京で暮らしていた頃、こんな無意味な空間はどこにもなかったような気がする。目に入ってこなかっただけ、つまり人の手で覆い隠されていたなのかもしれないが。周りを見回すと、広告、店舗、駅、きっちりと舗装された道路など、何かの目的のために作られたものばかり目についた。特に広告や店舗は、道行く人たちに「こっちにおいで」と激しくアピールし、四方八方から手を伸ばされているような感覚だった。

 住んでいたアパートの近くには川が流れていたが、コンクリートで周りを固めてあるせいか、深くて黒々としており、川沿いの等間隔に並んだ樹木にも人の手が加わっていて、無機質な感じがした。生き物の姿は見えず、どこか温かみに欠ける川だった。

 街を行く人々もどこか背伸びしているようで、人混みの中、私も何者かにならないといけないのだと焦っていた。時間を無駄に過ごすことは嫌いだったし、損得にも敏感で、どこかピリピリしていたと思う。

 

 田舎での生活は、人生の意味や目的を探すことに疲れ切っていた私の心を癒してくれた。私は元々、都会に憧れて東京に出たのだし、田舎特有の人間関係も決して得意ではないのだけど、案外、田舎の土地に流れる長閑な時間が、性に合っていたらしい。

 小さな川の中で生きるイモリやタニシ、アメンボたちを眺めていると、命に大した意味などないことがよく分かる。日照りが続けは彼らの生は簡単に終わるし、儚いものだ。でも、だからこそ美しくて、価値がある。彼らが生きる姿を見ていると、神様が生み出した芸術作品を眺めているような気分になる。真に美しいものは神にしか作れないのではないか。つまり人間は自然の中に存在する美を模倣することしかできないのではないかとさえ思う。

 

 なんの意味も目的もない空間。ただ自然の法則のみに従って四季折々の変化を遂げるような、そんな世界がもう少し広がっても良いのではないかと思う。もちろん、人間が暮らしやすい社会を作るには、自然を犠牲にすることもやむを得ないのだろうけれど、あの儚くて美しい世界が消えてしまうのは悲しいのだ。

 

 保育園への行き帰りに息子と様々な生き物を指さしながら歩いていると、時々、近所のおばちゃんが嬉しそうに話しかけてくる。「昔はここにもメダカがいたの。今は川の水が少ないから育たないのね。」という言葉を思い出す。消えてしまったメダカに思いを馳せながら、私も儚い命を思いっ切り生きてやろうと思う。

 

 

 

 

常識について

 昔からどこかずれていて、友達の輪の中にいると会話についていけず、結果浮いてしまうタイプの私であるが、社会人10年目がそろそろ視野に入ってくる今日この頃、なんとか人間のフリをしてそつなく会話をこなすこともできるようになってきた。それでも未だにアイドルグループの誰々がどうとか、まつ毛パーマの効果がどうとか、そういう自分の興味のない話題にはついていけないし、誰もが当たり前に知っているような「常識」がすっぽりと抜け落ちているから夫に驚かれたりもする。

 

 教育熱心な親の元で育った私は、高校生の頃は毎日毎日友達と遊んだりせずに引きこもって勉強していたので、芸能人のあれこれやら恋愛テクニックやらには疎かった。食べ物に関しても全く無知で、調理実習の際には酢醤油を作る際に醤油とお酢の分量が分からず酸っぱく仕上げて周りから大笑いされた記憶がある。大人になってからは、興味のなさや経験の少なさからくる知識のなさが周囲の会話についていけない原因だろうと思い、(それがきっかけというわけでもないが)テレビを観始めるようになって、雑学が少しずつ頭に入ってくるようになってきた。「友人グループ」という、友達付き合いが上手な人が中心になるような曖昧な人間関係では端っこの方にいた私だが、職場という公的で対等な人間関係の中では、会話も少し楽になった。

 ところが、職場に適応できたと思えたのも束の間のことで、職場に独特のマナーやルールが蔓延っていることに気づくと、また私はどのように振舞えばよいか分からず困惑した。旅行した時のお土産の選び方、渡す範囲、お返しの仕方。飲み会の際の奢り方、奢られ方。お世話になった方への負担にならない程度の丁度よい感謝の示し方。暗黙のルールもあれば、暗黙に蔑ろにされているルールもある。服装一つとっても、派手に見られないだろうかとか、逆にクソ真面目に見られないだろうか、とかいちいち悩んで、疲弊した。

 

 「常識的な振舞い」の正解はいつも曖昧だ。最近フォロワーさんがリツイート(頑固な私は今でもツイートと言ってしまう)していた漫画「銀太郎さんお頼み申す」(東村アキコ作)に結婚式参列時の服装に悩む女の子が登場しており興味深く読ませていただいた。この漫画の主人公は、上の世代の女性から振袖を着ていくのが当たり前だと教えられるが、若い友人からは親族以外の参列者が振袖を着ていくのはマナー違反だとアドバイスされ、混乱する。私も初めて友人の結婚式に行った際には勝手が分からず相当悩んだものだが、「常識」は時代の移り変わりに従ってアップデートされていくし、一つの答えがあるわけではない。

 私がこの漫画を読んで羨ましいなと思ったのは、主人公が同じ結婚式に参列する友人たちに何を着ていくか尋ねていたことだ。「常識」が分からず困惑するところまでは私と同じだが、私は悩んだときに相談できる相手が夫しかいない。いや、夫に聞く前に、まずはGoogle大先生に聞いている気がする。学生の頃から検索エンジンにはお世話になりっぱなしだが、その性能は日々進化している。頭の中で何か疑問が生じると即、私は検索して答えを求める。誰よりも頼りになる相談相手かもしれない。ただ、その回答は無機質で、どこか心もとない。

 

 前々から薄々気づいていたことだが、もしかして、私は「常識」が欠けているのではなく、自分の「常識」に不安や疑問を抱いた時に誰かに相談するスキルが欠落しているのかもしれない。考えてみれば、中学生の頃から対人恐怖症が激しくて教師に質問に行くことすらできなかった。私は、「質問」や「相談」というものが苦手である上に、そもそも、他人と気軽に相談ができる関係を築いてこなかったのだ。

 職場でも、なんとなく知り合って、なんとなく飲みに行ったりして、仲良くなったような気になっていたが、その後マメに連絡を取り合うでもなく、フェードアウトした同僚が何人もいる。周りを見渡すと、若い後輩たちはグループの中で、雑談交じりに気軽に情報交換をしている。

 要は、私が他人と深い関係を築けないから、「常識」が分からず、ますます孤立していくのか。はたまた、その逆か。鶏が先か、卵が先か、みたいな話になってきたけれど、やはり、問題の本質は、私のこのような暗~い心性にあるようだ。

 

 今更、実の親の話を持ち出してくるのも癪だが、私が「相談」というものが苦手なことには親の影響も大きい気がしている。両親とも、私と同じく、少し(いや、かなり、かもしれないが)感覚が世間一般人とずれており、例えば、コロナウィルスが流行り始めて緊急事態宣言がバンバン出ていた頃に、「大昔にインドに旅行に行った時に、いろんな免疫をつけたから大丈夫」とかなんとか言って、遠くまで旅行に行ったりしているような人たちだった。「常識」や「世間」、「空気」みたいなものを一切無視して生きてきたような人たちであったので、その娘である私がずれていない方がおかしいだろうと思う。大人になり、父親にはいろんなことを相談するようになったが、どのような助言をされてもそれが唯一の正解だとは思わないようにしている。母親はといえば、過保護ゆえか、自分の考えを押し付けてくるので、相談すらしようと思えない。こんな育ちなので、「悩みがあると家族に相談します」と言い切れる人がうらやましくなることもある。(私も、夫という相談相手がいることには、感謝しているが。)

 

 Google大先生はいつも唯一の正解らしきものを教えてくれるが、何をするにもGoogle先生の言いなりになっている自分が時々馬鹿らしく感じることもある。Googleは私の職場の雰囲気を知らないし、私の周りの人間がどんな考えを持っているか、私自身が何を大切に生きているかを知らない。Googleに反旗を翻して、自分の感覚で立ち振る舞いを決めた方が、心のこもった人付き合いができるような気もする。結局、「常識」というものに囚われないで生きるのが一番楽なんだろう。とはいえ、そのような度胸があれば、こんな悩みは抱いていない。すべては、他人に愛されたいのに、ただ、傷つかないように生きることしかできない私が悪いのだろう。

 

 

 

 

ジョハリの窓から

 「人間には、自己表現に生きるタイプの人間と、他人の役に立とうと行動するタイプの人間がいるが、君は後者じゃないのか。」と、最近夫に言われて内心憤慨した。私はずっと芸術を愛してきたし、自分の表現するものを大切にして生きてきた。他人のために、生きてきたわけではない。この人は私のことをまるで理解していない、と嘆きたくなった。

 しかし、ふと冷静になってから思った。「ジョハリの窓」という概念があるが、「自分はこういう人間だ」と思い込んでいる自分の姿は、案外他人から見た姿とずれていたりする。「本当の私の姿」を知っているのは、案外他人だったりするのかもしれない。そう考えて、夫の放った言葉に今一度注意深く耳を傾けてみると、なるほど、私は確かに「他人の役に立ちたい」と願って今の職業を選択したのだと思い出す。客観的に見れば、私は「他人のために生きる人」なのかもしれないが、どうなのだろうか。

 23歳の頃から、私は心理学の専門分野で働き始めた。出会う人、出会う人、問題を抱えていて、暗い表情をしていた。借金だらけの人。過ちを犯した人。親の愛情を知らない人。……頭でっかちで、世間知らずだった若い頃の私は、様々な出会いによって、何度も心を大きく揺さぶられた。


 就職する頃の心境を綴った文章「かなしい人のそばにいること」を読み返すと、「不幸の感情に満たされている人を救いたい。」と、私は書いている。私なりに、真剣に、大胆に、そして傲慢にも、自分なら誰かを救えるのではないかと思っていたようだ。他方、こうも記している。「結局私は、自分が救われたいだけなのではないか?」と。


 働き始めてから、思い描いていたような仕事ができない悔しさをずっと感じてきた。仕事の内容自体に制約があり、思うように他人を助けることができないという実感もあるが、何より自分の能力の限界を感じている。
 今のままの仕事を続けていても、人の役に立っている気がしない。「私は一体、誰のために、何のために働いているのだろう」という疑問が、日々つきまとう。
 もっとほかの、「人の役に立つ仕事」ができればよいのだろうか、と思う。しかし、この世の仕事はすべて、誰かに必要とされているから「仕事」として成り立っているわけであって、「人の役に立つ仕事がしたい」という言葉にはある種の矛盾が含まれるような気がする。そうすると、自分のやりたいことは一体何なのか、よく分からなくなる。

 

 私が本当に心から好きだと思えるのは、人のために尽くすことではなく、好きな音楽に没頭したり、何かをゼロから作り上げたりすることだ。自分の好きなようにやった結果、誰かが喜んでくれれば、なおいっそう嬉しいと思う。
 今の仕事の中でも、ちょっとしたものの制作に携わったり、研修などの企画運営をしたりすることがあるが、そのようなクリエイティブな仕事をしているときが1番楽しく、自分が輝ける気がしている。しかしそれらは本来的な業務ではないし、ある程度型が決まっているので、それ以上のことはできない。
 自己表現については、昔から、私の中では物凄く価値を置いている。何かをクリエイトできることは素晴らしいことだと思うし、何かを生み出すたびに、自分の価値が上がったような気がする。けれども、この頃は、日々の中で何かを表現、創作する時間が昔に比べて圧倒的に減っている。家庭を持ったことも大きいが、昔ほどの情熱がなくなっているのが怖い。若い頃は、気が狂ったように何かを作っていたものだが、今はもう、何も作り出せない自分に慣れてしまっている。
 私は変わってしまったのか、それとも、自分を失ってしまったのか。
 はたまた、表現したいというのはただの憧れであって、私には他人に尽くす生き方のほうが似合っているのか。

 

 2025年は、自分のために生きたい。妻として、母親としての役割や、仕事上での役割に縛られない、という意味で。
 役割の中で生きることは、それ自体が誰かの役に立っていることであり、素晴らしいことなのかもしれないが、私は機械の歯車ではなく、たった一人のかけがえのない個人なのだということを、時には信じさせてほしいと思う。

 

 今の仕事をいつまで続けるのか、別の道に進むのか、そろそろ人生の方向性を定めなければいけない時期にさしかかっている。だけど、その前提として、自分は何者なのか、この泡のような人生は一体何のために存在しているのか、もう一度自分を見つめ直す必要がある。
 2025年、そんなゆったりとした時間が取れればよいのだが……生憎、公私ともに忙殺されそうで、日々追い立てられるように走り続けるのが、現実的なところである。そんなに急いで、一体私はどこへ向かうのだろうか。

 

 

 

死と幸福についての独り言

 家の近くで他人が死んだ。避けようがない事故だった。テレビに映った風景を見て、私は幼い息子に「ねえ、うちの近くが映っているよ」と言おうとして口をつぐんだ。家の近くで他人が死んだという事実を、幼な子にうまく伝えられる自信がなかった。

 息子は最近、死という存在に気づき始めている様子だった。ある週末に、マンションのエレベーターを何度も乗り降りしたことがあった。機械的に開け閉めされる扉の近くには、カメムシの死骸が転がっていて、干からびて動かなかった。マンションの管理人は土日は不在なので、この死骸を掃いて捨ててくれる人はおらず、私もなるべく死骸には触れたくないと思っていた。息子は初め「なんでカメムシさんここにいるの?」と不思議そうな顔で聞いてきた。私は適当にはぐらかしたと思う。2回目にエレベーターに乗った時には、息子は「カメムシさんはなんでまだいるの?」と恐怖の表情を浮かべながら私の腕を掴んだ。息子の中でカメムシというのは、網戸に勢いよくぶつかってくる得体の知れない緑の虫で、地面に転がっているものではなかったのだろう。あんなに元気に動いていた生き物が微動だにしなくなっている、その不気味さに息子が気づいた瞬間だった。私は言った。「カメムシさんは死んじゃったからね、動かないんだよ。」息子は首を傾げていたと思う。3回目にエレベーターに乗った時には、息子は泣き叫んでいた。「嫌だ、嫌だ、カメムシさんがいるから。怖い、怖い。」何を言ってもエレベーターに乗ろうとしない息子を私は抱きかかえた。「抱っこしてあげるから、下は見ないで、前を見ていなさい。」カメムシはいつの間にかいなくなっていた。風にでも飛ばされたのだろうか。

 

 子どもの感性の純粋さに驚いてばかりの日々の中で、自分が少しずつ若さを失っていくのを感じる。向学心も減ったし、毎日惰性で生きている。運動不足が祟ったのか、30を過ぎてから病気がちにもなっており、貴重な余暇の大半を睡眠に費やしている。

 若い頃は何かを成し遂げなければと懸命に生きていたが、今は日々を正しく「幸福」に生きることで精一杯で、それ以上の何かをしようという気さえ起らなくなっている。こうして文章を書きたいと思ったのも久しぶりで、昔のように何かを「創る」「表現する」「残す」ことには執着しなくなっている。

 昔の私は「幸福」に生きようなんて思っていなかった気がする。私ひとりが「幸福」に生きたところで、私の命なんて軽く、何かのはずみでふっと消えてしまったらそれで終わりだ。主観的に「幸福」に生きても意味がない。だから他の誰かにとって私が価値ある人間となるように、何かを成し遂げたり、他人の役に立ったり、少しでも価値のある作品を創ったりしたいと思っていた。

 でも、家族を持った今、私の「幸福」はもはや私だけのものではなくなっていた。私が日々を「幸福」に生きることが、夫や息子が「幸福」に生きることに繋がる。たとえ私が何かのはずみで消えたとしても、私たちの「幸福」な生活の記憶は家族の心に残り続ける。だから、自分ひとりの価値に固執するのをやめて、家族の「幸福」を追いかけている。

 ただ、「幸福」、と鍵かっこつきなのは、これが私にとって本当の幸福であるのか確信が持てずにいるからだと思う。いずれは私も、本当の幸せを追求したくなり、また歩み出すのだと思う。

永遠のさよならの前に

 

 その瞬間はあっという間

 過ぎ去って行くのを知っていながら

 何もできずにいたんだ  

     

「それは永遠」 GRAPEVINE

 

 

 温かな空気がほのかに残る夕暮れ時、仕事を終えた帰り道、泣きたい気分でGRAPEVINEを聴いていた。保育園の花壇にはチューリップやパンジーが咲き誇り、春の訪れが感じられる。春、出会いと別れの季節だ。

 私が泣きたい気分だったのは、とても好きだった人にきちんとお礼ができなかったからだ。その人は職場の上司の、その上司のような関係で、直接一緒に仕事をすることは少ないものの、時に殺伐とした空気にもなる部屋の中で、決して他人の陰口を言わず、凛とした雰囲気を纏っていた。年齢的にはいわゆる「おばさん」に含まれるのだろうが、いつも小綺麗にしており、とても「おばさん」とは呼べない女性だった。ずっと今の仕事を続けるのであれば、将来こんな上司になりたい、と初めて思えた憧れの存在だった。

 それなのに、別れ際には挨拶はしたけれど、それ以上に個人的に何かを渡す、という形ではお礼を形にできなかった。いろんな言い訳は考えつくのだけれど、単に私の精神的な余裕がなさすぎて、そこまで気が回らなかった、もっと言えば忘れていた、というのが恥ずかしながら事実だと思う。呆気なく別れは訪れて、彼女は去ってしまった。もう追いかけていくことはできないし、取り返しはつかない。こんなに感謝していること、密かに憧れていたことを、伝える術がない。

 

 元々、私は他人に気を遣うことが苦手で、人付き合いを避けがちだった。最近、ようやく積極的に振舞えるようになってきたけれど、慣れないことをすると、案の定失敗する。やはり私は人付き合いなんてするものじゃない、と再び自分の殻に閉じこもっているうちに、新しい春が来てしまう。あの人と、もっと話したかった。あの人とも、きっと気が合ったはずなのに。後悔が積み重なるけれど、後悔を糧に一歩踏み出したところで、やっぱりまた後悔する気がする。

 

 人との関係における後悔について、浮かぶのは伯父のことだ。

 

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他者は幻

 子どもの頃、私はよくこんな空想をした。友人や家族、道ですれ違う人たち、すべては幻である、と。

 他者が存在していると信じ切ることができなかった。未だに確信を持てずにいる。だって、証拠なんてどこにもない。

 自分が存在していることは、なんとなく信じられる。私は自分の過去の記憶の断片たちを、ある程度整合性が保たれた状態で想起することができる。机の角に手をぶつけたら痛みを感じるし、珈琲が飲みたくなれば今から台所に行って淹れてくればいい。それは、私が「心」を持った実在する人間だからだ。そういう風に自分の体験を理解することは、私にとっては容易いことだ(実はこの文章を書いている間に、自分の存在への確信が揺らいでしまったのだけれど、ややこしくなりそうなので、考えるのをやめた)。

 だけど、他者が私と同じように「心」を持つ存在であるという証拠はどこにあるのだろう。どこにありますか。どなたか、哲学に精通している方、教えてください。無知な私の直感では、どこにもないように思えます。

 大切な人が今目の前に「存在」しているように見えるとして、その網膜に映った像が幻でないという証拠はどこにあるのか。彼に触れることができたとして、その感覚が偽物でないと言い切れるだろうか。夢の中でだって、触覚は働く。私が今いるのは虚構の世界で、目の前のその人はただの幻で、つまり私は長い夢を見ている途中かもしれない。

 誰かが私を眠らせて、永遠のようなフィクションの世界を体験させているのかも知れない。

 もしこんな話をしたら、「私はここにいるよ、思考も感情も記憶も持っているよ、あなたこそ、幻じゃないかしら」などとあなたは答えるかもしれない。でもその言葉自体、フィクションの台詞であって、他者が実在すると私に思い込ませるための、巧妙な罠かも知れない。

 幼い私は、そんな妄想を大真面目にしていた。これに近い世界の捉え方に、「独我論」と呼ばれるものがあるらしい。勿論幼い私はそんな言葉を知らなかったし、今も詳しくは知らない。ただ、「この世とは何か、人生とは何か」という疑問のために私は頭を悩ませていた。それだけ、暇な子供だったのだ。

 大人になると、暇はなくなるが、別離の体験が増える。
 別離にはふたつの形があるように思う。ひとつは何らかの事情で関係性が途切れてしまう状態。もうひとつは死だ。ここ数年の間に、そのどちらの別離の形も多く体験して、私はまた、他者の存在の不確実性についてあれこれ考えるようになった。

 死によって人の存在は永久に失われる……というのは本当だろうか?夢に故人が登場し、その生々しい存在感に驚いて目を覚ますことがある。その一方で、顔と名前しか知らず、密かに憧れを抱いていたにも関わらず連絡先も交換せずに別れた人がいる。彼とこの世で再び巡り合う確率は、限りなくゼロに近い。私にとって彼の存在は半永久的に失われてしまった。それは彼の死とどう違うのだろう。

 ……考えだすと、きりがない。

 愛する人と別れる苦しみを和らげるために、すべては「幻」、というこのかなしい空想は非常に役に立つ。この世に実在しているのは、本当は私しかいない。全部夢だ。他者はいない。神もいない。だから何も恐れることは無い。悪いことだって出来そうだ。(でも、しない。だって、他者が本当に実在していないという証拠だってないのだから。)


「想像してみて下さい。あなたが今目で追いかけている活字の向こう側に、本当に人間がいるのでしょうか。いいえ、そこには誰も存在しない。あなたを取り囲むすべての刺激ははフィクション、幻です。」

 虚しいですか。虚しいですね。でもちょっと、楽になりませんか。

2015.10.16